その時、初めて私は自分にとってのそのコンステレーションの意味がわかりました。コンステレーションの中ではある男性が1人だけ除外されていて、バートの言葉はその人に対して向けられた言葉だと状況的には理解できました。しかし実際にはそれは私自身に向けて発せられた言葉のように感じられ、“自分には関係ない”と感じていた気持ちが、実はその除外されていた人の気持ちだったということが分ったのです。そしてその感覚は私にとってとても馴染み深いもので、日本にいる間にもよく感じている感覚だということを思い出しました。そしてそのバートの言葉を聞いた瞬間、私はとても救われた気持ちになり、自分がその感覚を今まで感じてきた理由がわかりました。自分の中にもその除外された感覚を持つ部分があり、実は私がその言葉をその部分に言ってあげたかった、つまり自分自身の中のその人にその言葉を言ってあげたくて、そのたった2つの単語を言う機会を探し求めて、ドイツまで足を運んだのだ、ということを感じたのです。
そのコンステレーションの一部始終は、youtubeに上がっています。
音声はドイツ語と英語ですが、実際には言葉はそれほど重要ではありません。
「言葉の壁がある」という表現をよく耳にしますが、この言葉を交えない新しいファミリーコンステレーションでは、誰もがその壁を感じずに同じ人間同士として繋がることができます。例え同じ言葉を話さない者同士でも、相手の文化についての予備知識が全くなかったとしても、誰でもが同じエネルギーの渦を身体で感じて、そこで繰り広げられる生命の物語に参加できるのです。
《現代物理学の視点から見た新しいファミリーコンステレーション》
また同じ「国際ヘリンガーDays」の中では、ヘリンガー夫妻も聴衆として同席する場で、何人かの著名なゲストスピーカーによる発表がありました。その中の1人は、歴代のノーベル賞受賞者が100人以上もメンバーに名を連ねる「科学発展のための国際評議会(
IAS-ICSD)」で長年、生物物理学のディレクターを務めたディエター・ブローエルズ(
Dieter Broers)という生物物理学者の方でした。彼は演説の冒頭で、古代ギリシャのテアトロ(シアター)の画像をスクリーンに表示してこう言いました。
「おそらく太古の人々は、テアトロに集まってファミリーコンステレーションをしていたのだろう。昔の人々にとっての観劇の意味は、今の人々の考えるものとは全く違うものだった可能性がある。」
その後彼は人間の意識について、量子論や最新の生物物理学の話題を交えて説明し始めました。例えば、ファミリーコンステレーションの中で起こっていること、全くの他人であるはずの感覚を代理人が感じる事ができるということなどを、アインシュタイン-ローゼンブリッジ(ワームホール)の概念を使って説明していました。難解な内容で全ては理解できませんでしたが、私はその後の質問時間に、自分の質問をする機会を得ることができました。
質問:「ファミリーコンステレーションというのは、みんなで同じ対象に意識を向けることによって現象を観測し、そして観測することによってその対象にも影響が及ぶというお話だったと思います。ということはつまり、ここに集まっている私たちはみんなで同じものを見て意識を集中し、祈りのようなことをしているということですか?」
回答:「そうだ、そういうことを意図して私はここで話していた。」
このブローエルズ氏の言葉は、私に確信を与えてくれました。私が、ファミリーコンステレーションを通して伝えてゆきたいと思っていることが、この回答に詰っていたからです。ファミリーコンステレーションでは、人々の心の中で現在起こっていることがありのままに表され、それが多くの人の目の前で明るみに出ます。今までは本人の心の中でふとした時に現れるだけだったことが、その場にいる全ての人たちによって同時に観測されるのです。そしてそれが多くの人にありのままに認められた時、そこで起こっていることの意味はもう既に以前のものとは違うものになっている。それはファシリテーターや他の誰かの意図に沿ったものという訳ではなく、単に起こったことの結果として導かれた姿に変容していくという過程が(観測する側とされる側の相互で相対的に)一歩だけ進む、ということです。
《サイコセラピーとファミリーコンステレーション》
このことは、今までファミリーコンステレーションが日本で紹介される際に枕詞のように使われてきた心理療法(サイコセラピー)という言葉、そしてその枠組みを大きく打ち壊します。多くの心理療法においてはある確立されたセオリー(理論)があり、療法家(セラピスト)たちはそのセオリーに沿って訓練を受け、それに基づいて患者(クライエント)を見立て、あるべき姿または社会的に受容され得る姿に導こうとする傾向があります。そうでなければ、様々な療法で取り入れられている資格認定制度などは機能せず、成り立たなくなります。そして特に精神医学に関連する領域においては、診断基準そのものが社会に適応できるか否かというところで線引きがなされるために、その傾向が顕著です。もちろん一部の柔軟性を持ち合わせる熟練した療法家が、セオリーや社会的制約に捉われずに患者を快方へ導いているという例も数多くありますが、その多くは療法そのものというよりもその療法家個人の寛容さなど、人間的特質が寄与するところが大きいでしょう。
そしてこの心理療法における治療者と患者という2者の関係においては、患者の全ての期待は一方的に治療者へと向かいます。患者は自分の何が間違いで、どのように改善していけるかを治療者に見つけてもらえると信じて、期待するのです。また、ある意味治療者は変化の余地もその必要もない絶対的な存在とみなされ、変化や改善を遂げるのは患者本人の個人的な裁量の及ぶ範囲に限られます。そして多くの場合、その2者の他に変化に関与する人々の存在についてはその重要性を考慮されることもなく、あったとしてもあまり語られることはありません。
しかしファミリーコンステレーションでは、クライエントやファシリテーター、代理人だけでなく、その場の成り行きを見守っている観察者たちも含め全ての人が等しく重要な役割を果たしています。そして、もしその場で癒しが起こったり解決が導かれたとしても、それは代理人たちの動きの中で自ずと現れるものです。治療者が提示したものでも、何かのセオリーに沿ったものでもありません。それはファシリテーターを含め誰もが予想していなかった形で現れる、常に新しいものです。このことをバート・ヘリンガーは「助けは、どこかからやってくる。」と言っています。そしてその
“どこかからやってくるもの” の恩恵を受け取るのも、クライエントだけではなく、その場にいる全ての人です。このファミリーコンステレーションを通して起こる癒しとは、全ての人にとって同時に、全体として起こることなのです。
《ファミリーコンステレーションとは何なのか?》
とはいってもファミリーコンステレーションは、当初は心理療法として始まりました。そしてバート・ヘリンガーも、自身が長年サイコセラピストであったと認めています。しかし彼とソフィー夫人の貢献によって近年めざましい発展を遂げたこの新しいファミリーコンステレーションについて彼が語るとき、それは心理療法(サイコセラピー)とは違うものだ、ということを強調しています。また「長年に渡って心理療法家をしている人がいるとしたら、その人は迷いし魂だ(
DVD「健やかに生きる −魂の平和−」 Disc2 01:23:26〜)」とも言っています。
ではファミリーコンステレーションが心理療法でないとすれば、それは一体何なのでしょうか? 前述のブローエルズ氏に質問した時に、私は「祈りのようなことをしているのか?」と問いました。私は、このような癒しや解決をもたらすアプローチについて、“祈り”
の他に言い表す言葉を知らなかったからです。もっともバート・ヘリンガー自身が最近も、ファミリーコンステレーションについて「それが何であるか、そしてそれがどこからやって来たものなのか、未だに誰も分からない。」と言っているので、私が “祈り”
という言葉に当てはめる必要もないのかもしれません。とにかく、今までに無い新しい可能性に富んだアプローチである、ということには変わりないのですから。
《新しい可能性と普遍性》
冒頭のアルメニアとトルコのコンステレーションで私が感じたように、「自分には関係ない」と思っていた気持ちも、世界のどこかの孤立した誰かの気持ちであったということのように、この世界のどんな出来事でも私たちに関係がないということはないのだろうと思います。地球の反対側の誰かの悩みや苦しみも、自分の身の回りの人間関係や自分の身体の中の何かの感覚として必ず現れていて、それらは繋がっているのだと思います。そして私たちは、身体の痛みがある時にその痛みにフォーカスして何とかしようと試みますが、逆に例えば異国の人たちのグループの全く知らない誰かの身に起こった出来事のコンステレーションに参加するだけで、自分の身体の痛みにアクセスできるということも起こるのです。
この世界観は、何も今初めてファミリーコンステレーションによってもたらされた考え方という訳ではありません。歴史上を見渡せば、同じようなことを伝えようとしている人もいくつか存在する、普遍的なもののようです。ちょうどこの文章を書いている時に、今回の東京ワークショップを手伝ってくれているボランティアスタッフの1人がタイミングよく教えてくれたのが「注文の多い料理店」や「銀河鉄道の夜」で有名な宮沢賢治の言葉でした。彼は「世界全体が幸せにならないうちは、個人の幸せはあり得ない」と書いていたそうです。この言葉には、今も世界中の多くの人たちがファミリーコンステレーションに参加し、皆で一緒に誰かの身に起こっている出来事に対して積極的に意識を向けていこうとしていることの意味が、集約されていると思います。
つまりこの新しいファミリーコンステレーションは、もはや悩みを抱えている人、自分の手に負えない程困っていてる人、誰かの助けを必要としている人たちだけのためのものではありません。コンステレーションの映し出している情景が、例え全く知らない人の心の中の悩みだったとしても、もしかしたらその悩みの原因の一端が自分にもあったということに気付かされるかもしれません。例えば「私は今までその問題に
“無関心”
という姿勢で関わっていた」ということに気付くかもしれない。もしそうならば、それに向き合って自分の責任で変えていけることは何なのだろうか、という姿勢で明日から生きていくことが可能になります。それは1人で誰かの責任を肩代わりする、ということとは違います。皆で一緒に同じ出来事に意識を向け、そしてそこに現れている自分のパートを受け持つ。オーケストラで指揮者の指揮棒に意識を集中しながら、自分の楽器をせいいっぱい弾いて皆で調和した一つの音色を奏でる、ということに近いかもしれません。そうすることで結果的に、自分自身で手がつけられず諦めていた問題にも解決がもたらされる、ということもあるのです。一つの生命の物語を通して繋がった世界中の人が、立場の違いはあれど同時に同じように癒されていく。そしてその後にやってくるのは、今までとは違うより明るい世界です。この新しいファミリーコンステレーションでは全ての人が、そのより明るい世界を作り出すことに関わっていくことができます。
だから、You too...(あなたも...)
この言葉を、自分の中の手をつけられずに諦め、見ないことにしていた感覚に呼びかけてみてください。
そして、You too...(あなたも...)
この世界を明るくするための大きなムーブメントに、いま招待されています。
最後に、同じく「国際ヘリンガーDays」のゲストスピーカーとして演台に立った1人、ブラジルのサミー・ストーチ裁判官の新しい取り組みについてご紹介したいと思います。サミー・ストーチ裁判官は、ドイツのヘリンガー夫妻の元で集中トレーニングを受けた後、ブラジル・バイーア州の裁判官として2006年よりファミリーコンステレーションのワークショップを開催し始めました。民法、刑法、少年法の領域でファミリーコンステレーションを活用し、実際に成果を上げています。特に家庭裁判所の離婚調停において驚異的な高い和解率を達成したことで、ブラジル法曹界で広く認知されることになり、大統領からこのファミリーコンステレーションのための特別な予算をとりつけるに至ったとのことです。